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山田方谷を語る 十一 藩政の充実

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月25日更新

 山田方谷全集第一冊の安政4(1857)年の年譜を意訳すると、「方谷が元締になって八年たった。この間旱害、地震、米価暴落など、災厄が頻発した。殊に藩主が寺社奉行になり経費が嵩んだけれども、ほぼ十万両の負債を償却しただけでなく、のちにはついに十万の余財を見るようになった」と書かれています。同全集安政5年に、方谷が後継者の大石隼雄に朱書して示したことは、「先代藩主時代から持ち越した借金は八万両で、そのうち半分を方谷は返す予定でいたが、実際には三分の一も残っていない。残りはいざとなったら無借同然にする策を考えている。」と言っています。

 余財については、安政元、3 年は1 年に千両ずつの黒字、5 年は3 6 0 0 余両の赤字、安政4〜万延元(1860)年の3、4年間はおよそ1万3千両の余剰金が出来たこと、それ以外に1万両を御勝手(藩財政)から撫育方に貸していること、藩主が寺社奉行になった時6千〜7千両を7年割で借金し、国防費や災害で破壊された江戸の建物のために九年割で借りていても、領民に御用金はかけていません。方谷が財政を担当して11年経った文久元(1861)年には御勝手は見違えるほど楽になり、翌年快風丸を7150両で購入し、慶応元(1865)年には撫育金を処分して、2万両を海岸大武備に支出し、征長軍費の追加金1万両を使ったことが書かれています。

 安政4年に方谷は元締(財務長官)を退いて、大石隼雄が後を継ぎ、方谷自身は相談役として継続して藩財政を指導し、前年から藩の重役の一員である年寄役助勤にも任命され、藩政の実務を全力で努めました。元締役は大石の後一時方谷がつなぎ、神戸謙二郎や三島中洲など弟子が担当していますが、「藩主勝静公の信任のもと藩政の実権はその手を離れなかった」と言われています。

 藩主勝静は安政4年に江戸幕府から寺社奉行を命じられました。寺社奉行は全国の寺社および寺社領を支配してその訴訟を裁判する幕府の要職です。しかし諸費用は藩の経費となり、交際費も含めてかなりの資金を覚悟せねばなりません。辞退の意向をもつ勝静に方谷は財政面での不安を取り除いて就任を勧め、その結果藩主は寺社奉行となりました。しかし翌年井伊大老の弾圧政治に反対したため辞任させられています。

 松山藩の藩政改革の成功を聞いて、各地から人々が相次いで視察にやってきました。安政6年に来た会津藩士秋月悌次郎は方谷のことを、「米、棉めん、タバコからナスやキュウリの時価まで口にして議論する真に経済の達人である。釘を作り江戸で売り一年で三千両の利を生んでいる。その人柄は純朴で謙虚で近隣諸国のなかでも最も優れた人物」と言っています。越後長岡藩士の河井継之助は当時33歳、安政6年7月に長瀬(今の方谷駅の所)を訪ね、方谷に藩の用務が忙しいので学問は教えないと断られると、藩政改革の実状を学びたいと頼んで門弟にしてもらい、奥万田のお茶屋(別名水車)に宿泊を許されました。長瀬にも行って、翌万延元年3月まで方谷から学んでいます。その間、門弟の進鴻渓や三島中洲などとも交わっています。継之助は最後には家老となり、長岡藩を財政的にも豊かにし、軍事も強化していますが、戊辰戦争の時、中立を要求して入れられず、会津側に加わり激戦のなか重症を負い、会津への途中亡くなりました。自室には常に方谷の書を掲げ、教えを守ったと伝えられています。

 万延元年に井伊大老は桜田門外で水戸浪士に襲われて亡くなり、翌文久元年、勝静は再び寺社奉行に任命されました。方谷は江戸に同行し、顧問として相談に応じています。この時江戸城にて将軍に拝謁しました。

 藩の財政改革の成功が知られていたので、各藩の重役の訪問が多く、心労が重なった方谷は愛宕下で吐血しました。駆けつけた中洲に平気な顔で、「わが心中の賊(我欲)を亡ぼすため、胸の中を血だらけにして戦った」という漢詩ができたと言ったので、中洲は王陽明の「山中の賊を敗るは易く、心中の賊を敗るは難し」を連想し、剛毅なお方と驚きました。

(文・児玉享さん)