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山田方谷を語る 十三 教育者方谷

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月25日更新

 明治元(1868)年1月、松山藩は岡山藩の占領下に入り、藩は存亡の危機の中、藩士たちの必死の奔走によって、函館まで幕府軍と同行していた板倉勝静と連絡が取れました。その結果、勝静と子の万之進(11歳)は江戸で自首し、安中藩に永預けとなりました。後継藩主をたてるため、遠縁の栄次郎を江戸近郊から松山に秘かに連れ出し、勝弼として届け出ました。明治2年9月に、松山藩の再興が認められ、駐屯していた岡山藩士は引き揚げ、10月には藩名を高梁藩に変え、2万石となりました。これらの陰には方谷を中心とする多くの藩士の奔走だけでなく、庄屋層や商人たちの嘆願活動もあったのです。

 しかし、時代は大きく変わり、日本は天皇を頂く明治政府による中央集権国家となり、明治4年の廃藩置県により高梁藩は廃止となり、深津県、1年後に小田県、明治8年には岡山県となりました。明治維新後、方谷は政府からの出仕の要請も断り、松山城下には出ず、長瀬(現方谷駅のあたり)で塾を開いて教育に専念しました。

 勝静は明治5年に禁固が解かれ、明治8年4月高梁に帰り、八重籬神社に参拝し、方谷など旧藩士と蓮華寺の臥牛亭で会食しています。勝静は翌日から3日間、長瀬の方谷の家に滞在し、旧交を温めています。

 長瀬塾で学んだ谷資敬の手記によると「私が明治2年2月入塾した時、生徒は10人ほどでしたが、先生は各人に応じた教科課程を立てられ、日々教授なさいました。半年後には50人になり、冬3カ月間は特に勉強に励むよう諭されました。朝はろうそくをともして易経を講義、朝食は粥と漬物、食後に春秋左氏伝と詩経を隔日に講義、冬の寒い日も火鉢を置かず、遺言のつもりで講義しているので長くなってもよく聞いて欲しいと言われました…」など方谷の教育に対する真剣な姿勢が窺えます。長瀬が手狭になったので、明治3年10月に小阪部(現新見市大佐小阪部)に移り、ほとんどの寮生はそちらに従いました。ここは矢吹久次郎が購入していた代官所の跡地で広く、200人位の塾生が学ぶことができました。小阪部は母の先祖の地で、供養の心もあり、移住を決意したのです。

 どちらの塾でも月謝を少額にするため食事は質素でした。寮の生活は学習中心で、その妨げになるようなことを禁じました。先祖・父母の恩を思い、毎朝遥拝することを教え、それをしない者はすぐ退塾するよう厳しく定めています。

 明治3年に門人が久世に開いた塾に、方谷は明親館と命名し、翌年、大学を講じています。旧岡山藩士の岡本巍らの依頼を受け、明治6年に和気の閑谷学校を再興しました。以来、春秋一カ月ほど滞在して陽明学などを講義しています。同年、開校された柵原の知本館やその近郷に翌年開校された恩知館は弟子が開き、方谷が命名した郷学です。以後閑谷学校への行き帰りに立ち寄って講義しています。このように方谷は門弟が建てた塾をも助け、地域の教育発展に尽力しています。

 方谷はこの間に、山陽と山陰の文物の交流のため、倉敷から高梁、新見を経て、米子に至る陰陽連絡道を県知事に提起しています。この道づくりがもとで、沿道の人材物資の交流が進み、のち鉄道伯備線が敷設されることになります。

 方谷は明治9年7月、閑谷学校に行き、8月知本館を経て帰宅した後、慢性水腫が悪化し、明治10年6月26日亡くなりました。享年73歳でありました。ご遺体は28日、長瀬に迎えられ、29日、西方村で千余人の会葬者によって葬儀が行われ、方谷園内の墓地に埋葬されました。墓標の「方谷山田先生」の文字は勝静が書いて送ってきたものです。八重籬神社の境内には三島中洲の書いた「山田方谷先生の碑」が建てられています。

(文・児玉享さん)