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山田方谷を語る 二 丸川松隠に学ぶ

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月26日更新

 5歳になった方谷は父親に連れられて新見の安養寺まで約20キロメートルの道を歩きました。そこは伯母が嫁いでいた寺で、下宿させてもらって松隠塾に入学するためでした。丸川松隠は幼い方谷を孫のように慈しみ、当初は世話と指導を彼の長男・慎斎に託しました。後年、方谷は受けた情愛を「父母の慈しみを超えていた」と回想しています。松隠は「ああ、こんなすばらしい児であるお前はどこから生まれてきたのだ。落ち着いて座り、小さい手に太い筆をかまえて、字を書くと竜が走るようだ」と感心しています。それを聞いた新見藩主関公が7歳の方谷を呼び寄せて面前で書かせ、異例なことと人々を驚かせています。


 9歳のとき、松隠塾に来た客が、方谷が勉強している姿を見て、「坊や、学問をして何になるんだね」とひやかすように聞くと、彼はすぐに、「治国平天下」と答えました。当時の学問といえば儒学、中心は朱子学で、「治国平天下」はその目標を端的に表す言葉です。朱子学では必ず学ぶ重要な書物として「大学」「中庸」「論語」「孟子」の四書を挙げています。その最初に学ぶ「大学」の教えは、まず明徳を明らかにする。次に自分の心を良くし、正しい行いをする「修身」、心の正しい人は家人を良く指導できる「斉家」、家をよく整えられる人は国をよく治め「治国」、その人は世の中を平和にする「平天下」。この「治国平天下」のために勉強していると方谷は言ったのです。人々は驚き、「彼は神童だ」と評判になりました。しかし、彼は穏やかで謙虚な人でしたから、おごることなく学問に励みました。


 さらに歴史の勉強もし、詩作も学んでいます。すでに13歳のとき中国の三国時代に活躍した諸葛孔明のことを詠んだ詩を作っています。それは漢詩の出来といい書のすばらしさといい、みごとなもので、松隠の娘婿の丸川竜達が衝立に仕立て、西阿知の丸川塾の玄関に置いていました。これは後になって三島中洲が方谷の存在を知るきっかけとなったものです。中洲は方谷の牛麓舎で学び、松山藩にとっても重要な働きをする一人になります。


 母をわずか14歳で見送った方谷は、思いに沈むことが多く、心配した松隠は方谷の気持ちを聞きました。それに答えたのが「述懐(思いを述べる)」という題の漢詩です。以下は山田琢氏の訳です。


『父はわたしを生み、母はわたしを育てる 天は私を覆い、地は私を載せる わたしは男の子だ、よく考えねばならぬ ぼんやり草木とともに枯れてはならない 世のためにつくす仕事は成しがたく 年月の流れ去るのは早い わたしが柱によって愁いに沈んでいると わたしを知る人は深く思いすぎるという 流れはとまらず人は老いやすい わたしの胸はふさがって重くるしい 父母の恩と天地のめぐみは極まりなく いつの日にこの恩にむくいられることか』


 これに対して松隠は「陽気の発するところ、金石もまたとおる。精神一到何事か成らざらん」と書いて与え、激励しています。松隠塾の1本の柱の頭のあたる場所が黒ずんでいます。方谷がよりかかってよく物思いにふけっていた所だといわれています。


 父五郎吉は5歳の平人を抱え、家業の製油業も一人では無理なので、方谷を家に帰らせたいと松隠に手紙を出しました。松隠は「このような素晴らしい児が得られたのはご先祖等の善行のおかげです。今からの学習次第で優れた人になれるのに、ここで中断するとこれまでの丹精が無駄になる。亡くなった母親も嘆かれる。今一段土台ができたら、上方に出して学習を続けさせたい。衣食のことなどのご心配はご無用です」と返事を書きました。そこで五郎吉は方谷には頼らず、菅生の西谷家から近を後妻に迎えて家業を再開しました。しかし1年もしないうちにその父も亡くなり、方谷は学問を中断して、家に戻らねばならなくなりました。松隠の嘆きの声が聞かれるようでありました。 (文・児玉享さん)