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山田方谷を語る 四 遊学時代

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月26日更新

 山田方谷は喜んで有終館で勉学し、家業にも励みました。2年が経ち、上方での遊学を願う気持ちは抑えがたく、菜種油の製造と販売が暇になった3月、23歳で京都に向かい、年末まで寺島白鹿のもとで学問に専念しました。出発に際して丸川松隠は、「斯文には淵源(儒学の根源)がある。それを探り求めて帰る」ことを期待するという詩を贈りました。方谷はそれにそって一生懸命努力しましたが、果たすことは出来ませんでした。その苦悩もあって、彼は蘭渓禅師のもとを度々尋ねて、禅の修業もしています。


 故郷に帰った方谷は、家業を行いながら日夜深く思い、心に感じるところがあり、2年後の3月から再度の京都遊学を決行しました。5月に松隠に書を送り、前回の課題について方谷が思索した結果を述べていて、それは「天人の理をきわめ、性命の源に達し、大賢君子の境地にまでのぼる」ことによって初めて解決できると考えたことを述べるなど、2度目の遊学は大いに学問が進み、9月に帰国しています。

 12月には藩主から苗字・帯刀を許され、八人扶持で中小姓格を与えられて武士の身分となり、有終館会頭(教授)に任命されました。両親の悲願が実現したのです。翌年6月には藩より内山下の有終館のほとりに邸宅をもらっていますが、さらに学問を深めるための遊学を考え、12月に会頭を辞めました。その時目録と銀3両を受けています。


 その2カ月後、方谷が西方帰郷中に邸宅が焼失し、家財も書籍もすべて失いました。その時有終館も焼失しました。留守中とはいえ、その責任を感じた方谷は松連寺で謹慎しました。1カ月後に許され、27歳の7月には3度目の京都遊学に出発しました。今回は八人扶持で資金もあり、2年間の許可をうけて、京都白鹿邸に入りました。鈴木遺音の塾にも入り、春日潜庵などの多くの学者と交わり、学問研究も進みました。


 生計の困窮を訴えた弟の手紙に対して、方谷は、「家の窮乏は心痛に堪えません。たとえ資産がますます減ってもそなたの罪ではありません。私は微力ですのに責任だけが重く、日暮れて道遠しの感があります。たとえ世間の人に笑われても、亡き父の志は継がねばなりません。主君の恩に報いなければなりません。家を離れ年を忘れ、慈母や妻子の愛をなげうち他郷に遊学、力尽きて中途で死ぬとも志を果たす覚悟です。この志は天下の力を以ってしても動かすことは出来ません」と返書し、学問研究を続ける強い意志と剛毅な性格を示しています。この頃「伝習録」を読んで王陽明の学問を知り、さらに学ぶため、3年間の学業延長を許され、29歳の暮れに江戸に行き、佐藤一斎の塾に入って修業することになりました。


 一斎は「陽朱陰王」といわれ、幕府の学問所、昌平黌では朱子学を教え、家塾では陽明学も教えています。この頃、佐久間象山と毎夜激論し、象山が洋学を重視するのに対し、方谷は儒学で充分やれると譲らず、他の塾生がやかましいので一斎に中止を依頼すると、こっそり聞いていた一斎はにっこり笑って、「まあ、やらしておけ」と言ったとの話です。学識・人格に優れた方谷は塾頭となっています。


 この佐藤塾時代に、各藩が財政的に困っている現状に対し、その対策として「理財論」を書いています。これは後年に実施する藩政改革の理念になっています。「事の外に立ちて事の内に屈せず」「義を明らかにして利を計らず」の心で、名君と賢臣が思いをこらし、ぜいたくを排除し、賄賂を禁じ、民物を豊かにし、文教を盛んにすれば財政は健全になると述べています。


 無理がたたったのか、31歳の5月に方谷は大病を患い、生死の境をさまよいましたが、回復した後は、以前より強健になったということです。翌年5月に娘瑳奇が天然痘にかかり、11歳で亡くなっています。どんなにつらかったことでしょうか。方谷の嘆きが推測できます。この年の9月に遊学期が終わり、藩主板倉勝職に従って帰郷しました。天保七(一八三六)年のことでした。 (文・児玉享さん)