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山田方谷を語る 六 世子勝静を指導する

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月25日更新

 山田方谷は有終館と牛麓舎で教育に専念していました。40歳になって、藩主勝職の世子(次期藩主)の教育をも任されることになったのです。この時、世子は22歳。桑名藩主松平定永の第8子、寛政の改革を行った松平定信の孫・松平寧八郎
で、5年後に藩主勝静となります。

 方谷が弟平人に送った手紙の中に、「世子の君は文武をご研精なされ、敬服しています。学問としては、前学頭奥田楽山が『名臣言行録』を、私は『資治通鑑綱目』を用い、隔日に会読しています。唐の時代の過半はお済みになりました。時には卓越な議論もあります。作詩はことに上手で五言、七言の長編詩もお出来になり感心いたします。文学はご家中に及ぶ者
はないと思います。武術も毎日なされ、弓術と馬術は抜群のご上達です。寒中でも炉辺へ寄られず、これまで夏の昼寝と冬の暖炉はしないとのこと。桑名侯の厳しい家風が分かります」と、勝静の優れた文武の才と人物が書かれています。

 「資治通鑑綱目」は司馬光が著した歴史書、「資治通鑑」の中から、朱子が重要な事柄を選んで書いたものです。唐・宋の歴史を学び議論することによって、君主としてのあり方を共に考えています。特に唐の徳宗(人を正しく見ず、いさめる賢臣を追い出し、おもねる家臣を重んじて政治が乱れ、臣下の反抗を招いて、一時国外に逃亡した君主)について、その失政を論じた世子の徳宗論の写しを方谷は求めました。世子が「何のために欲しいのか」と聞くと、方谷は「将来、殿が我欲で良くない言行をなさった時にお諫めする証拠にしたいと思います」と答えると、理解されて貰い受けています。このような教育を通して、至誠惻怛(誠をつくし、人を思いやる心)を教えています。のち世子が藩主になった時、藩政改革には方谷が必要だと考える心がつくられていきました。

 弘化2(1845)年には世子は藩内の実状を知るために巡視して廻り、方谷はお供をしています。故郷を通る時、殿の傍らで偉そうに見られているのではと、昔の仲間の気持ちを思いやる詩を読んでいます。弘化4(1847)年には、長年の心労がこたえた妻の進が、心を病んで新見の実家に帰りました。その時の方谷の苦衷が分かる手紙が残っています。

 アヘン戦争(中国がイギリスに敗れて屈服した)などの情報から、方谷は西洋式銃砲や、軍制改革の必要を痛感しました。津山の天野直人が江戸で学んで帰ったのを聞くと、牛麓舎の塾生であった三島中洲を連れて一カ月、津山の本源寺に宿し、昼は砲や戦術を学び、夜は津山藩士の有志者に古本大学を教えています。この旅で、43歳の方谷の歩きが速くて、18歳の中洲がついていけなかったということです。帰郷すると2砲を造り、庭瀬の家老渡辺氏にも火砲の術を学び、2年後、南の下山に的を作り、試射するなど、藩の洋式軍備の導入を目指すことになりました。

 嘉永2(1849)年、世子の勝静が藩主となり、勝職は隠居、のち病死しました。方谷を士族に取り立て、遊学を許可し、学頭に取り立ててくれた大恩人の死に、方谷は礼装端座して50日間喪に服し、勝職に殉じて職を辞すことを考えていました。

 ところが方谷は江戸藩邸に呼び出され、勝静から藩の元締(財務長官)と吟味役(元締の補佐役)を兼ねることを命じられました。固くお断りしましたが、1日おきには講義に呼び出され、引き受けるよう強く要望され、財政の立て直しの役には方谷の他はないと迫られ、遂に引き受けさせられました。役料として高十石が下されました。

 この抜擢に反発し、「学者が御勝手(財政)、藩運営が出来るものか」と、江戸の藩邸では次の狂歌二首が広がりました。
 山だし(山田氏)が何のお役にたつものか
  へ(子)の曰はくのような元締
 御勝手に孔子孟子を引き入れて
  なほこのうへに空(唐)にするのか

 こんな空気の中で財政改革が始まるのです。

(文・児玉享さん)